瞑想 覚醒への旅 -HOME-

誰もが「自分自身を失った」「我を忘れた」ことがあるのではないでしょうか。
「私は意識している」とか、「あれは木だ」とか、そういう想念や思考が全くない状態です。これは純粋意識であり、解放とも呼べるものです。

分離・区別が存在しなくなるその瞬間には、平和・調和・静穏・過程の一部になりきる喜びがあります。そのとき、宇宙は新鮮なものに変わり、清浄な目を通して眺められ、すべてが新しくなります。

過去は流れ去った。来るべき月も年も存在しない。
われらのみこの刹那、ここにある。

マハムード・シャバスタリー「神秘のバラ園」

私たちは分離を克服するためにあらゆる努力を試みます。
これ以上ないほど親愛の情を示したり、しつこいほどスキンシップをしたり、多くの言葉を浪費して思想を交換したり。
しかし、いつも自分の部屋から外に向かって叫んでいるように感じることがないでしょうか? 部屋を離れようとする試みさえ、その部屋がまさに自分のものであることを強調する結果となってしまう…と。だとすれば…

結局のところ、いったい私は何なのか?

ひょっとしたら私は「思考する心が建てた部屋」に過ぎないのではないのだろうか?--もしそう考えるなら、それはあなたの「覚醒への旅」の始まりを意味します。

私たちは、自分たちが作り出すまでは存在しなかった何かから抜け出すために多大な努力を重ねます。一瞬のうちに消え去ってしまう何かからです。
誰もが部屋のない時を何度か経験しています。にもかかわらず、それについて真面目に考えなかった。言い逃れをしたり、無視したり、見逃してしまったり。

私たちは何かの拍子に部屋の外にでると、まずあたりを見渡し、自分が外に出ていることを実感して、慌てふためいてしまいます。ダッシュで部屋に駆け戻りドアを閉めて、激しい動悸に胸をあえがせる。

「よかった。無事に帰れた。セーフだ!」
「どんなに部屋が汚れていようとゴキブリだらけだろうと、どってことはない。セーフだ!」

--オルガスムスの瞬間。愛する瞬間。我を忘れて身を救う行動に走る危機一髪の瞬間--こういう瞬間は人生のうちで繰り返し現れます。最初は感情面での衝撃、ドラッグ、セックス、大自然、あるいは恋愛の形でやってきて、平時とは異なる意識状態を一瞬垣間見せてくれます。
この瞬間体験は本当は自分には現在以上の何かが存在することを示してくれます。自分でそうと思い込んでいる存在と正確には違うと言う意味で。

信じ愛する友人たちと静かに座っていたりすることによって、自己意識の境界線がうすらぐとか、自己防衛の力を放棄するなどの場合も、この「瞬間」を状況を引き金として垣間見ることができます。

サーファーは、圧倒的な力を持つ波と瞬間的に釣り合いを保つことによって、その「時」を得、スキーヤーはそのバランスが完全な時に「瞬間」に直面します。熟練していてその場面での必要度を完全に満たすなら、そのとき不安は存在せず、私たちになすべきことは他に何も残っていません。そして、意識は広大になります。

こういった瞬間には、公明正大さ・敬虔な存在感・明晰さ・自分を取り囲む全てのものとの親密な一体感・思考が作り出す自己意識からの脱出、が伴います。

注意が必要なのは、その瞬間と媒介物(状況)を同一視してしまうことです。同一視してしまうと、状況にしがみつく結果となってしまいます。つまり、その「瞬間」をもう一度作り出そうとしてその状況に戻ろうとしつづけるというわけです。

過去において起きた状況に固執する必要はありません。

流れのこういう瞬間はいつでもどこでも起こりえます。一生を通じて私たちはこういう瞬間に多く直面します。たかが一瞬の出来事ですが、そのような瞬間こそ瞑想の真髄でもあります。

大切なことは実践であって、実践し続けることで人生のうちにそういう瞑想的な瞬間を増やしていくことができるようになります。その結果、行動が即瞑想といえるような人生がやがてやってくるでしょう。そして あなたの全ての行為は、宇宙の流れの一部分となります。

人はなぜ瞑想するのでしょうか?

瞬間のうちに生きるために。事物の調和の中に住むために。
つまり、覚醒するために。

ラム・ダス「覚醒への旅」


当サイトを作成するに当たって、ラム・ダス先生の著書「覚醒への旅-瞑想者のガイドブック-」を参考にさせていただきました。この場を借りて感謝申し上げます。

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